仏陀という存在の理解に必要な事

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仏陀=お釈迦様というのは厳密には違うと思う。

なぜなら、仏陀=ブッダであり、ブッダ=覚者だからである。ん?なにを言いたいのかよくわからないと言われてしまいそうだが、覚者というのはいわゆる悟りを得たものという意味であるから、ブッダとは正確には目覚めたもの、悟りを得た者であるわけで、対象がたくさんいるということになる。

だから、仏陀=お釈迦様ではなく、正確には仏陀=目覚めた方々(お釈迦様を含む)なのである。
ここでそんなはずはない、真の悟りとはお釈迦様だけだ、そんなことを思う方もいるかもしれない。しかし重要なことは真の仏陀ではなく、目覚めた者の定義である。原始仏典に近い経典を読んでいくとお釈迦様は様々な人に法話をしている。その中で、よくこの世界の本質的事象について理解できたものに「目が醒めた」というような表現をし目覚めた者として認定しているシーンが多々ある。

ここに一つの示唆があって、目覚めた者は必ずしも仏教を極めた賢いものではない。その例えに、掃除しかできないチューダ・パンタカという悟ったと認定されたお釈迦様の弟子は逸話の通り頭はそんなによくないどころか、自分の名前すらも忘れるほど賢くなかったと言われていて、この者が悟った人、目覚めた者という定義であるならば、お釈迦様の掴んだ悟りの境地とチューダ・パンタカの悟りの境地は深度が違うと考えられるのではないだろうか。

事実、歴史上の偉人や偉業を成し遂げた方々の悟りと、お釈迦様が直接説法した多くの人々の悟りはその後の得られた結果も含めて大・小があったことが推定される。仏教界では大悟という表現があるように、悟りは誰にでも理解できるものであるが、(お釈迦様が多くの一般人に法話したという事実より推測)使いこなすには深い理解が必要と言えるのではないだろうか。

こうも小難しく、仏陀の定義や悟りの定義などを話すと頭が混乱するのですこし整理してみよう。

1.お釈迦様は多くの一般人に法話して内容も含め支持されている。
2.賢い人物以外でも悟りを得ている。数多くの人がお釈迦様の法話によって悟っている。
3.悟りを得た人は、悩み苦しみの世界から抜け出している

整理すると思うことが、私はお釈迦様が現代にいるとすればやはり現代の生きた成功者を例えに様々な法話をするだろうと思う。なぜならば、彼がやりたかったことが徹頭徹尾、人々を悩み苦しみの世界から解き放ちたかったという事に対して、難しい話をしたり、聞いたことも無いような話を一般の人が共感すると思えないからである。

私も普段は、仏教をわかりやすく説明することにかなり注力している。そのおかげで、非常に解りやすいとお褒めいただくことがとても多いのだが同時に、しっかり仏教を勉強したい人に、本当の意味でどんな国の人でも、どんな職業でも、どんな年齢でも説法自在であるから仏教なのだと言いたい。

仏教は実践の中で、掴むものだと私は常に思うと同時に1秒でも早く多くの人に目を醒まして欲しいと願うのである。そのお手伝いこそが自分の楽しみでもあり、社会に対する恩返しでもあると思う。(住職)