この悟りというワードは業界最大のタブーの一つ。

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今まで自分は、業界の人に配慮して「悟り」という単語をあえてネット上に出していませんでした。


理由は簡単で、悟りという概念はあまりに手垢の付いたもので固定概念が強く、ありとあらゆるお坊さんが人が説明するもののよくわからないものになっており、使うことで混乱が増すのではないだろうかという懸念でした。

要するに、胡散臭いと思われたくないという気持ちです。

しかし、様々な業界のパイオニアの方々と話す中で何が仏教は良いのかをきっちり伝えないと相手に伝わらず、非難される以下の扱いにされてしまうという言葉に励まされて今はある意味堂々とこの悟りという単語を使い始めています。

正直、悟りの定義はあいまいな部分があります。
きっと各宗派ですべて違うでしょう、いや個人個人で違うレベルかもしれません。
そのくらい、ネームバリューに対して明確な定義が怪しいのです。

では、なんで自分はそれをあえて持ち出すのか?
そこに仏教の原点があるからです。

この概念を無視して実践的な仏教の使い方をしようとすると一言に根拠が無くなります。
国、年齢、人種、時間、場所・・・様々な要素に対して普遍性が示せなくなってしまうのです。

なんか言いたいことが分かりづらいかもしれませんが、仏教はそもそもインドから伝わったものです。
チベット、中国、日本、東南アジアの国々・・・世界中に広がっているのです。それはある意味、国を超えて伝わっていくだけの普遍性があったからと言えます。

仏教のどこにそんな普遍性があったのかという観点で原始仏教を見ていくと、そこにはお釈迦様が目の前の相談者に向かって世界の普遍性を語るシーンが多々あるのです。自分は、この部分を含んで破綻しないものが悟りの前提条件だと捉えています。

仏教を実践的に用いる上で、現在の社会の問題を解く、日本の問題を解く、人生の難題を解くこれらが出来なければ、ある意味仏教の悟りの普遍性を証明できないと思っています。日々、実践していくなかでそれを確固たる形で証明できる日が来るよう一層の精進をしていこう思います。

「私が人生で成功したメソッドがこの悟りという考え方だったんだ」と語れる日が私の夢の一つです。

人は形を見て納得する生き物です。判り易く結果を持って証明するそれが一番の説法ではないのでしょうか。(住職)