家族葬で、得られたものと失われたもの

葬儀について何か書いてくださいと言われ、あれこれ考えました。

「葬儀」とひとことに言ってもあまりにも切り口がたくさんあるからです。

葬儀の流れや、マナーや、お金の話もいいのですが、そういった情報はweb上でイヤというほどに出回っています。

 

ここは金剛宝寺というお寺のサイト。

 

ひとつ、葬儀の本質に食い入るテーマを書きたいなということで、「どうして人は葬儀をするのか」という角度から、いま流行の家族葬について考えてみることにしました。

 

というのはですね、葬儀の本質は、”人が人に会うこと”だと確信しているからなのです。

この観点で考えた時に、参列者を制限する家族葬が、本当にあるべき葬儀の形なのだろうかという疑問に、どうしても行き当たってしまうのです。

 

家族葬にはいい面もたくさんあります。だからこれほどまでに普及したのでしょう。

でも、家族葬によって失われたものもまた、たくさんあるのです。

 

それらを、ひとつひとつ、ひも解いていきたいと思います。


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【家族葬が普及した理由】

 

まずは、家族葬がどうしてここまで普及したのかについておさらいします。

 

1)さまざまな”縁”の希薄化

 

まずなによりも、さまざまな”縁”が希薄化しています。

親縁(親族間のつきあい)、地縁(隣近所や地域の人たちとのつきあい)、社縁(会社や仕事上の関係先とのつきあい)などなど。

ひと昔前の葬儀は積極的に参列者を迎え入れたのですが、その多くはここに挙げた親族や、ご近所さんや、会社関係の人たちでした。

こうした人たちのいわゆる「義理」の参列を敬遠する風潮が広がっていきました。

 

2)高齢化で呼ぶべき参列者がいない

 

2016年の調べでも日本の平均寿命はいまだに過去最高を更新しているとのこと。

息を引き取った故人が高齢であるために、そもそも呼ぶべき人がいない。

このような理由で家族葬にするというケースもよくあります。

 

3)接待葬儀への反動とバブルの崩壊

 

バブルの時代までの葬儀は、故人を偲ぶことよりも、いかに参列者もてなすか、いかに見栄えをよくするかという、いわゆる「接待葬儀」が加熱していましたが、同時にこうした風潮を冷ややかに見る向きもあったようです。

バブルが崩壊して景気が低迷することで、社会全体がお金をかけない葬儀へとシフトしていったのです。

 

 

【家族葬によって得たもの 多様な弔いの受け皿に】

 

家族葬の普及は、社会のニーズに合致しています。

「祭壇を豪華にしなければ」「料理をたくさん用意しなければ」

こうしたことよりも、「故人をゆっくり偲ぼうよ」という流れそのものは健全です。

 

これは筆者が葬儀社に勤務していた時に喪主様から聞いた話です。

当時よりさらに10年前にお母様の葬儀を執り行ったという喪主様は、その時は親族や近所の人たちにも訃報を流したかったが、やむを得ない理由で、当時珍しい家族葬で執り行いました。

すると、大規模葬儀が全盛の時代だったこともあり、あとから周りの人たちに「そんな葬儀じゃ供養できないよ」と言われたそうです。とても苦しい想いをされたそうです。

「いまは家族葬が当たり前になったから、安心してオヤジを送り出せるよ」としみじみ語っていた姿が印象的です。

 

小規模な葬儀では、まわりを気にすることなく自分たちの望む葬儀を執り行うことができます。

いまでは家族葬や直葬などは市民権を得ているために、跡取りがいない、費用を捻出したくてもできないなどの、小規模の葬儀に頼らざるを得ない人たちの心理的な受け皿になっています。

この功績は計り知れないでしょう。

なぜならば、葬儀の大小が供養に関わることなんて、あってはならないからです。

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【家族葬によって失なわれたもの 人には弔われる権利も弔う権利もあるはずだ】

 

一方、家族葬によって失われたものもあるのではないでしょうか。

端的に言うならば、「参列できない!」ということです。

 

よくある家族葬のデメリットとして

 

「葬儀後に訃報を伝えたことで、苦言を呈される」

 

…というものがあります。

 

「どうして先に教えてくれなかったの」「あの人の最期の葬儀なのに」

 

あとから聞かされた人たちのこうした気持ちも分からなくはありません。

 

葬儀を取り仕切るのは家族です。

お金のこと、お寺様とのやりとりのこと、各方面への連絡やお礼など、しなければならないことはたくさんで、負担が一気にのしかかります。

喪主や家族が大変なのは、よく分かります。

しかし、故人には弔われる権利がありますし、どんな人にも弔う権利があります。

 

故人は家族とだけつながって、この世界を生きてきたのではありません。

さまざまな人とのつながりの中で生きてきたのです(もしかしたら家族よりも長い時間をも)。

そうした社会的つながりのあった人たちと、最期に出会う場所と時間を制限してしまう家族葬は、ある意味乱暴でもあるのです。

 

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【葬儀の本質は、人が集まること】

 

筆者は、葬儀の本質は、人が人に出会うことだと思っています。

遺された人が故人様に会いに行く。

悲しみに暮れる遺族を慰めに行く。

故人を介すことで、死者も生者がつながる。生きている者同士が「つながっている」ことを再確認することができる。

人さえいれば、葬儀は成り立つのです。

 

もちろん…

「故人の最期だからきれいな祭壇を飾ってあげよう」

「来てくれた人たちにわずかでも料理を振る舞おう」

…こうした"おもてなし"の精神はそれこそ日本人の美点で、素晴らしことだと思います。

 

でも、大前提として考えるべきは、亡くなった人がいて、その人を囲む人たちがいれば、それで葬儀は充分成り立つのだ、ということではないでしょうか。

 

亡くなった人に会えて、肌に触れ、手を合わすことができれば、それで葬儀なのです。

遺されたもの同士が、亡骸を目の前に、思い出を語り合うことができれば、お互いを励まし合うことができれば、それで葬儀なのです。

私たちだけでは処理しきれない、故人の霊魂の問題を解決するために、僧侶がやって来て、供養してくださる。それで葬儀なのです。

 

死者が、家族が、親戚が、縁のあった人たちが、そして僧侶が一堂に集まれば、それで葬儀なのです。

 

葬儀の本質は人が集まることです。

 

7万年前のネアンデルタール人も、故人に花を手向けました。

そこには、背伸びした葬儀費用も、祭壇も、料理もありません。

死者を、仲間たちが囲んで、花を手向け、涙を流し、慰め合っただけです。

それが、葬儀なのです。

 

お金を節約する。祭壇を小さくする。

全然構いません。

だけど、故人のために、そして喪主や遺族のためにも、人が参列してくれることだけは、制限しないことをおすすめします。

人に偲ばれる、人に励まされることが、どれだけ私たちを勇気づけてくれることか。

 

心のこもった参列や弔問には、悲しみや戸惑いにくれる遺族の明日を、少しでも明るく照らしてくれる力があります。

 

人は、人によって、助けられる。

葬儀とは、そういうものだと、思うのです。 文責・十村井満