お寺と葬儀

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親しかった信徒さんの葬儀に出席する機会がありました。生前から熱心な信仰心のあるかたで、いつもありがたいと感謝の言葉が良く出る方でした。檀家寺でないうちはご遺族の意向で他の方が運営するお寺の方の葬儀に出ることはこれまでも多くあったのですが、これは無いだろうと思う事件がありました。

良く信仰されていた方でしたので、戒名は本人の希望に沿う形でつけてあげて
欲しいと相手方のお寺さんに希望したのですが、他所でどれだけ信仰していたか知らないがうちには関係ないと拒否されました。あと、葬儀のときマイクを持って参列している私たちにあてつけのような法話をされて悲しくなりました。

こちらはあくまで親しかった方へのお見送りをしたいと考え、参列者の一人として参加する心つもりでした。葬儀を台無しにするつもりも、進行を妨げる意図もありませんでした。
確かに同業で仕事の上では競合になる相手かもしれませんが、人としてその対応は故人に喜ばれる行いかと問いたくなりました。マイクを取り上げて代わりに故人を弔いたくなるような振る舞いでした。こんな方がやる葬儀や法事がまかり通っているのかとショックを受けました。

お寺は人の心の働きを整えて、人々を幸せにする道を説くところだと思っています。離別の苦しみを和らげるのも仏教と心のプロとしての役割だと思っています。衣やお寺の形が整っていて道具が揃っていても心を扱う人がひどければ
その働きは出なくなってしまいます。専門的なことは解らなくてもそのお坊さんが真摯に仕事をしているかどうかはわかるものです。

次第というマニュアルに従って葬儀や法事をしている瞬間だけを世間の皆様がみているわけではないです。高額な布施を取り夜の街で飲み歩いていたり、非課税特権を使い高価な車に乗り豪華な庫裏に住み飲食をしている方々に反発されている方も数多くいます。人の心を扱うものが人の心の声を見ようともしない。
先祖代々、地域独占で仕事が自然に入ることに胡坐をかいていないかと思ってしまいます。ネットの時代でどこのお寺がいくらでどんな仕事をしたと誰もが見聞きし、比較できる時代です。70代80代の方はまだお寺への敬意が深く残っています。けれども、その次の世代になるともう信用は地に落ちています。
これから駄目なお寺との付き合いをやめる事ももっと抵抗無く行われるようになると見ています。こんな仕事をしていたら必ず立ち行かなくなります。

多くの人の声無き心の声は聞こえないかもしれませんが、そうした一部の振る舞いが社会の信頼を損ねていることは自覚すべきところだと思います。私たちに信用がなくなれば、どんな祈願も供養も効き が悪くなります。社会から必要が無いといわれる信用の無いお寺にはなりたくないものです。(道陽)