1月12日から1月14日までの体験修行は、長崎の方と長野の方でした。
お二人ともまだ若く未来の人生について話す必要があったので、仏教の境地の話をしながら人生の道筋を示しました。その上で、修行の方針を決め人生でどこまで上りたいのか、なにを解決したいのか、目標や夢はしっかりあるのか。そんなことを丁寧にヒアリングです。その後修行をしたのですが、修行が終わってお帰りの際に書いてもらうアンケートではまた学びに来たいと書いていただきました。大変ありがたいことです。
体験修行はどちらかというと個人向けなので少人数になることが多いのです。お寺で修行というと広いお堂で大勢で座禅を組むというようなイメージが強いのですが、修行の極意は己の心を掴み人生を自由自在にすることです。座禅もその手段の一つなのですが、心の扱いが上手い人や社会で成功している人などに人生を見てもらうことで自分がどれだけ社会とずれているのかが具体的に分かるのです。
その上で、そのズレをその場で気が付いて直すことができれば荒行の何倍もの速度で思ったことが思ったとおりになる人生にすることができるのです。ここまで書くと、そんな上手い話あるのか?と言われてしまいそうですが、即仏教を使いこなせる人がいることは事実です。まさに目が醒めたという状態です。仏教の言葉で言い換えるなら「法悦」と呼ばれています。
法の話を聞いて、感動し、将来に希望を抱く。その時その人の目は大きく開き、笑顔になるのです。ズレに気が付いた人はそこから大きく生き方が変わります。というか自分が一番そうでした。
修行は厳しく、精神を鍛え、困難に打ち勝つ自分を作る!!
そう考えている方はとても多いです。なぜ困難に合うのか、強い精神とはなにか、厳しければ速く辿り着くのか。その根源的な意味を理解している人はとても少ないのです。
お釈迦様が、苦行は悟りに至る道ではないと言った意味をどれだけの人が理解しているのか疑問ではあります。お釈迦様の逸話で、修行はどのように行えばいいいですかという問いに対して修行を音楽の弦に例えて、強く張れば切れて、ゆるく張れば音が鳴らない。当然もっともバランスが良い張り方が一番良いのだという逸話があります。
私たちの修行は、ここで一生分の気が付きを得て自宅に帰ってからが本当の修行の始まりです。人生は自分を変えようと思ってどれだけの日々を過ごしたかで大きく結果が異なります。なので、うちにいる間だけ厳しい修行をして帰ればなにもしない。こんな修行にたいした意味はありません。一時的なモチベーションUPにはいいのかもしれませんが、世界の思ったものが思った通りになる人生というのとはまったく違う効果の修行だと思います。
本当の修行は、無理をするのではなく自分というものをしっかりと理解し、まるで水の流れが如く上から下に自然と流れて後に大河となるような人生を生み出すものだと考えています。
修行=滝!荒行!
お釈迦様の伝えたかった仏教がそんなものだったなら、残っている逸話は滝!荒行!で溢れないといけないはずですが当然そんなものはまったく残っていないのです。とはいえ、自分たちも水行に護摩を焚いているわけですからその効果と意味は十分に理解しております。その上での正しい修行のあり方を問うているだけなのです。
修行の果てになにを得るのか?
その鍵は、布一枚付けてインド中でお話しつづけたお釈迦様にあると自分は思っています。(住職)