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2018年1月

法事は、亡くなった人を偲んでつながりを確認しあう機会

法事とは本来「法要」と呼びます。

「法」の「要」と書くわけですが、仏法の要点、つまり仏さまの教えを知るということが、その語源にあります。

 

お寺では、毎年の年中行事としてさまざまな法要が執り行われています。

お彼岸に執り行う"彼岸法要"や、お盆時期の"施餓鬼(せがき)法要"、建物を新しくした際の"落慶(らっけい)法要"など。

いずれも檀家やお寺と関わりのある人たちが本堂に集まり、共に本尊を礼拝し、そして仏の教えを聞くのです。

 

このように、「法要」にもいろいろなものがあるのですが、昨今よく使われる「法要」や「法事」という言葉の場合、先祖の命日に親族が集まって、寺院を招いて供養することを指すことが多いようです。

こうした死者を偲ぶ法要のことを、"追善法要"や"回忌法要"と呼びます。


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【人は49日でホトケになり、33年でカミになる】

 

日本の民俗では、亡くなった人の魂を"荒魂"(あらみたま=死霊)と呼び、四十九日法要を済ませることで"和魂"(にぎみたま=祖霊)となり、さらに三十三回忌法要で供養は完成され、"氏神"(うじがみ=神霊)となると考えられてきました。

 

こうした死後観は、日本古来よりの民間信仰、儒教、仏教、神道などのさまざまな習俗や宗教論理が組み合わさってできあがっています。

 

いずれにせよ、定期的に集まる法事は、死者をきちんとホトケやカミにするために、子孫たちが集まって執り行います。

人が人をホトケにし、カミにする。

日本の宗教観はなんともダイナミックですが、その根幹には、仏教や神道などの宗教よりももっと原初的な、自然崇拝や先祖祭祀といった感覚が染みついているものだと思われます。

 

 

【追善法要:葬儀のあとの7日ごとの法事】

 

通夜と葬儀を終えますと、7日ごとに親族が集まって法要を執り行います。

これを"追善法要"と呼びます。

 

人は亡くなると49日の旅に出て、閻魔王に裁きを受けて、来世の行き先が決まります。

さて、遺された家族はというと、

「おじいちゃんには地獄に落ちてほしくない」

「天国や浄土に行ってほしい」

このように願うのは自然なことです。

そのために、7日ごとに寺院を招いて、そして親族も集まり、「故人が成仏できますように」とみんなで手を合わせ、故人のあとを「追」うように「善」い行いを積むのです。

 

最近では忙しい世帯が増えているために、初七日法要を葬儀当日に行い、四十九日までの法要を省略するケースが増えています。

 

 

【回忌法要:定期的に集まり、死者と生者のつながりを確認する】

 

四十九日法要を終えると、あとは百か日、一周忌、三回忌、七回忌と続いていきます。

三十三回忌で個別の先祖供養は完成し、その後は古く大きな先祖へとまとめられていきます。

回忌法要は、定期的に死者を偲ぶ大切な機会です。

 

そしてなによりも、普段会うことのない親戚同士がつながりを確認できる場でもあるのです。

みなさんも、ひさしぶりに親戚と顔をあわせて、昔話に盛り上がるというような経験はありませんでしたか?

 

昔の人たちは、自分たちの生活の中に死者を取り入れることがいかに大切かをよく知っていました。

 

仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたりすることで、私たちのルーツである両親、祖父母、そしてご先祖様という"縦軸のつながり"を常に確認し、私たちの生命は強く、太く感じられるのです。

 

そして同時に、定期的に法事をすることで、いまのこの世を共に生きている親戚たちという"横軸のつながり"をも強くすることができたのです。

まったくよくできたシステムではないでしょうか。

 

 

【四十九日法要までに準備しなければならないこと】

 

法事の中で最も重要なのは四十九日法要でしょう。

死者がホトケとなる、とてもとても大事な法要です。

ここでは四十九日法要までにしなければならないことをまとめました。

 

●位牌や仏壇の用意

法要までに位牌を用意しなければなりません。

仏壇がなければ仏壇も用意して、その中に位牌を祀ります。

葬儀の時にいただいた白木の位牌は仮のものです。

ちなみに、その位牌や遺骨を置く祭壇も白ですし、道具も白無地を用います。

葬儀の時の道具は四十九日まで、白いものを使用するのです。

これは、死者を祀る道具と先祖(ホトケ)を祀る道具を区別するためです。

四十九日法要を終えることで、故人は晴れて先祖の仲間入りを果たすので、祭壇も白木の仮祭壇から仏壇にし、位牌も白木の仮位牌から塗りなどの本位牌にします。


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●日程と場所の決定

いつどこで執り行うかは寺院と相談しましょう。

多くは仏壇のある自宅か、寺院で行います。

日程は死後49日目に執り行うのが正式ですが、平日の場合、仕事などで忙しく、集まることが難しいでしょう。

最近は、49日目よりも手前の、土日祝日などに設定することが多いようです。

 

●料理の手配

法要後は参列者が揃って食事をします。

なぜ葬儀や法事のあとに会食をするのかと言うと、民俗学の"神人共食"という考え方が根底にあるのでしょう。

神仏を介して共に食事をすることで、お互いのつながりを強くする作用が働くというものです。

 

●引き物の手配

法事に参列していただいた人たちにお礼の品を1組に1つ渡します。

こちらも手配しておきましょう。

 

●香典返しの手配

葬儀の時にいただいた香典のお返しは、四十九日法要を無事に済ませた報告を兼ねて、先方に贈ります。葬儀を終えると速やかにリストの作成や商品の選定をしなければなりません。

 

●墓石への文字彫刻

もしもすでに墓石を持っていて、四十九日法要に埋葬するのであれば、墓石や霊標に故人の名前を彫刻しなければなりません。石材店に相談しましょう。

 

 

【回忌法要で準備しなければならないこと】

 

回忌法要とは、四十九日よりあとの法要のことで、百か日、一周忌、三回忌、七回忌と続き、最後は三十三回忌で完成です(地域によって五十回忌のところもあるようです)。

 

回忌法要はそんなに難しいことはありません。

 

日程と場所を決め、寺院と一緒に法要を執り行って故人を偲びます。

参列者には引き物を用意して、法要後に会食の席を設けるのがよいでしょう。


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いかがでしたか?

亡き人とわたしたちがつながることができるのが法事です。

また、法事には親戚が集まるので、いまを生きているもの同士のつながりも確認できます。

普段聞くことのできないお寺様の話を聞くこともできます。

忙しい毎日に追われる中で、先祖の供養のためにみんなが集まり、手を合わせ、仏の教えに耳を傾けることができる、とても素敵で有意義な集まりなのです。  文責・十村井満

 

家族葬で、得られたものと失われたもの

葬儀について何か書いてくださいと言われ、あれこれ考えました。

「葬儀」とひとことに言ってもあまりにも切り口がたくさんあるからです。

葬儀の流れや、マナーや、お金の話もいいのですが、そういった情報はweb上でイヤというほどに出回っています。

 

ここは金剛宝寺というお寺のサイト。

 

ひとつ、葬儀の本質に食い入るテーマを書きたいなということで、「どうして人は葬儀をするのか」という角度から、いま流行の家族葬について考えてみることにしました。

 

というのはですね、葬儀の本質は、”人が人に会うこと”だと確信しているからなのです。

この観点で考えた時に、参列者を制限する家族葬が、本当にあるべき葬儀の形なのだろうかという疑問に、どうしても行き当たってしまうのです。

 

家族葬にはいい面もたくさんあります。だからこれほどまでに普及したのでしょう。

でも、家族葬によって失われたものもまた、たくさんあるのです。

 

それらを、ひとつひとつ、ひも解いていきたいと思います。


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【家族葬が普及した理由】

 

まずは、家族葬がどうしてここまで普及したのかについておさらいします。

 

1)さまざまな”縁”の希薄化

 

まずなによりも、さまざまな”縁”が希薄化しています。

親縁(親族間のつきあい)、地縁(隣近所や地域の人たちとのつきあい)、社縁(会社や仕事上の関係先とのつきあい)などなど。

ひと昔前の葬儀は積極的に参列者を迎え入れたのですが、その多くはここに挙げた親族や、ご近所さんや、会社関係の人たちでした。

こうした人たちのいわゆる「義理」の参列を敬遠する風潮が広がっていきました。

 

2)高齢化で呼ぶべき参列者がいない

 

2016年の調べでも日本の平均寿命はいまだに過去最高を更新しているとのこと。

息を引き取った故人が高齢であるために、そもそも呼ぶべき人がいない。

このような理由で家族葬にするというケースもよくあります。

 

3)接待葬儀への反動とバブルの崩壊

 

バブルの時代までの葬儀は、故人を偲ぶことよりも、いかに参列者もてなすか、いかに見栄えをよくするかという、いわゆる「接待葬儀」が加熱していましたが、同時にこうした風潮を冷ややかに見る向きもあったようです。

バブルが崩壊して景気が低迷することで、社会全体がお金をかけない葬儀へとシフトしていったのです。

 

 

【家族葬によって得たもの 多様な弔いの受け皿に】

 

家族葬の普及は、社会のニーズに合致しています。

「祭壇を豪華にしなければ」「料理をたくさん用意しなければ」

こうしたことよりも、「故人をゆっくり偲ぼうよ」という流れそのものは健全です。

 

これは筆者が葬儀社に勤務していた時に喪主様から聞いた話です。

当時よりさらに10年前にお母様の葬儀を執り行ったという喪主様は、その時は親族や近所の人たちにも訃報を流したかったが、やむを得ない理由で、当時珍しい家族葬で執り行いました。

すると、大規模葬儀が全盛の時代だったこともあり、あとから周りの人たちに「そんな葬儀じゃ供養できないよ」と言われたそうです。とても苦しい想いをされたそうです。

「いまは家族葬が当たり前になったから、安心してオヤジを送り出せるよ」としみじみ語っていた姿が印象的です。

 

小規模な葬儀では、まわりを気にすることなく自分たちの望む葬儀を執り行うことができます。

いまでは家族葬や直葬などは市民権を得ているために、跡取りがいない、費用を捻出したくてもできないなどの、小規模の葬儀に頼らざるを得ない人たちの心理的な受け皿になっています。

この功績は計り知れないでしょう。

なぜならば、葬儀の大小が供養に関わることなんて、あってはならないからです。

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【家族葬によって失なわれたもの 人には弔われる権利も弔う権利もあるはずだ】

 

一方、家族葬によって失われたものもあるのではないでしょうか。

端的に言うならば、「参列できない!」ということです。

 

よくある家族葬のデメリットとして

 

「葬儀後に訃報を伝えたことで、苦言を呈される」

 

…というものがあります。

 

「どうして先に教えてくれなかったの」「あの人の最期の葬儀なのに」

 

あとから聞かされた人たちのこうした気持ちも分からなくはありません。

 

葬儀を取り仕切るのは家族です。

お金のこと、お寺様とのやりとりのこと、各方面への連絡やお礼など、しなければならないことはたくさんで、負担が一気にのしかかります。

喪主や家族が大変なのは、よく分かります。

しかし、故人には弔われる権利がありますし、どんな人にも弔う権利があります。

 

故人は家族とだけつながって、この世界を生きてきたのではありません。

さまざまな人とのつながりの中で生きてきたのです(もしかしたら家族よりも長い時間をも)。

そうした社会的つながりのあった人たちと、最期に出会う場所と時間を制限してしまう家族葬は、ある意味乱暴でもあるのです。

 

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【葬儀の本質は、人が集まること】

 

筆者は、葬儀の本質は、人が人に出会うことだと思っています。

遺された人が故人様に会いに行く。

悲しみに暮れる遺族を慰めに行く。

故人を介すことで、死者も生者がつながる。生きている者同士が「つながっている」ことを再確認することができる。

人さえいれば、葬儀は成り立つのです。

 

もちろん…

「故人の最期だからきれいな祭壇を飾ってあげよう」

「来てくれた人たちにわずかでも料理を振る舞おう」

…こうした"おもてなし"の精神はそれこそ日本人の美点で、素晴らしことだと思います。

 

でも、大前提として考えるべきは、亡くなった人がいて、その人を囲む人たちがいれば、それで葬儀は充分成り立つのだ、ということではないでしょうか。

 

亡くなった人に会えて、肌に触れ、手を合わすことができれば、それで葬儀なのです。

遺されたもの同士が、亡骸を目の前に、思い出を語り合うことができれば、お互いを励まし合うことができれば、それで葬儀なのです。

私たちだけでは処理しきれない、故人の霊魂の問題を解決するために、僧侶がやって来て、供養してくださる。それで葬儀なのです。

 

死者が、家族が、親戚が、縁のあった人たちが、そして僧侶が一堂に集まれば、それで葬儀なのです。

 

葬儀の本質は人が集まることです。

 

7万年前のネアンデルタール人も、故人に花を手向けました。

そこには、背伸びした葬儀費用も、祭壇も、料理もありません。

死者を、仲間たちが囲んで、花を手向け、涙を流し、慰め合っただけです。

それが、葬儀なのです。

 

お金を節約する。祭壇を小さくする。

全然構いません。

だけど、故人のために、そして喪主や遺族のためにも、人が参列してくれることだけは、制限しないことをおすすめします。

人に偲ばれる、人に励まされることが、どれだけ私たちを勇気づけてくれることか。

 

心のこもった参列や弔問には、悲しみや戸惑いにくれる遺族の明日を、少しでも明るく照らしてくれる力があります。

 

人は、人によって、助けられる。

葬儀とは、そういうものだと、思うのです。 文責・十村井満

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