2017年4月
ここが大事!?「成長し続ける人」の3つのポイント!
シニアライフカウンセラーの講師の中で存在感を出せる人?
先日、天神でシニアライフカウンセラーの講師として二回目の講義を行ってきました。再度呼んでいただけるのは光栄な話です。
シニアライフカウンセラーというのは、文字通りシニアライフを快適に送るために必要な知識を学ぶ資格です。様々な専門家が自身の経験をもとにアドバイスおよび講義をしています。実のところ、こういった会にお坊さんが参加するということは稀です。なぜならば、お坊さんと一言にいっても何宗のやり方なのか、どこ地区の流儀なのかといった個性が出やすいのがお寺業界であり、葬儀、法事、お墓について統一見解を出すと言うのは本来はとても難しいことでもあるのです。
しかし、そこは仏教をよくよく理解していると解決する問題でもあります。本来、仏教はインドで生まれ、チベット、中国、日本と多くの国々を渡って伝わっております。日本だけで仏教を理解するならば、何宗のやり方はこうするものだとか、どこ地区はこういう儀式をするとか、なかなかまとまりづらい部分があるのですが、世界を通じて仏教を見るならばちゃんと統一見解が出せます。自分はそういった誰がどこでやってもここは外せない大事な仏教のポイントというのを通じて、シニアライフカウンセラーの講師をさせていただいております。
前回は初回でしたので、すこし慣れない部分もありましたが今回は実際の相談事例から問題点などを丁寧に押さえつつ解決のアドバイスをさせていただきました。おかげさまで、講義が終わった後に色んな方から「もっと詳しく聞きたかったです」とか「すごく勉強になりました」とか「楽しかったです」とか様々な好評をいただきました。(実際に具体的な相談された方もおられます)
運営の方に自分の講義の感想を聞くと、他の講師の方とは受講者の食いつき方がまるで違いますとお褒めの言葉をいただきました。きっと講師の中でも一際、存在感が出せる人だったのではないでしょうか。これからも皆様のシニアライフが不安なく快適に過ごせるよう、精一杯アドバイスさせていただきたいと思う次第です。(住職)
○○とは、自分を超え続けるという心の象徴
お釈迦様は、亡くなる寸前で弟子たちにこう告げます。
「自分の心を拠り所にし、
この世界の普遍的な法を拠り所にしなさい。
私(お釈迦様)に頼る必要はない。
世界は日々変わり続ける。怠けることなく努力し続けなさい。」
(写真は当寺で水行するTIMのレッド吉田さん)
この逸話が、
拠り所=ともし火=ローソク
努力し続ける=最後まで燃える=線香
となっていったのです。
自分を超え続けるというのは、常に努力を怠らず、時代の変化に適応し続けるという、仏教的な考え方とも言えるでしょう。(○○とは線香のことです)
人の世の中の変化には、一定の法則性があります。その法則性を学び正しく努力することが、人生を切り開く人には必要不可欠な事だと私は思います。実際に、自分も含め沢山の人がこの事に気がついて自由で豊かな人生になっているのです。
当寺の仏教道場では、ブッダイズムを通じて世界の普遍性をブッダの哲学から学び、実践することで自分を超え続けたいという人にきっと役に立つことでしょう。(住職)
お布施の額は周りの声が気になる?気にならない?
お寺付き合いのもっとも嫌がられている事のひとつがお布施の額です。
多くの人にとってお金は大事です。そのお金が予定より多く出す羽目になると大変な苦しみが生まれてしまうのです。お金に相当な余裕がない限り、時価という寿司を好んで食べる人ばかりではないでしょう。いくらと言われるかわからないからです。
ところが、お寺はお布施はお気持ちという名の時価です。お寺によってはお布施が安すぎるといってつき返すところもあると聞きます。そこで、困った檀家さんたちが周りの声を聞いて、誰々さんはいくらのお布施だったらしいとか、あの人はお布施が少なかったから相当嫌味言われたらしいとか。周りの声を気にせずにはいられないようなお寺もあります。
なぜ、そのような不確定なお布施なのでしょうか?それは、
お寺のお布施=お寺の住職さんの考え方
だからです。そこの住職さんの考え方一つでお布施の額が決まるわけですから、まったく基準はありません。お寺の格が高いから?うちの地区は昔からこの金額?檀家さんの数で頭割りしてる?
色々な理由が述べられていますが、すべてのお寺でお布施に対して独自のルールが採用されている時点でお寺の住職さんの判断だと言わざるを得ません。
ちなみに当寺はお布施は定額です。自分だって時価のものは買いませんので皆様にもそんなことで苦しんでもらいたいとは思わないのです。もともと、お布施がお気持ちでという慣習は、出来ることでお礼をすればいいですよという意味で、農家ならお野菜、漁師ならお魚、家具屋であれば家具など、持っているもので感謝のお礼をするといいですよという意味であって、歴史的には住職がお布施が安いとか高いとか言うようなものではないのです。現在は貨幣経済ですので、お礼は貨幣になりやすいですけどね。
ご供養は元々、感謝の気持ちを供えるものです。その感謝のお供えの一つにお布施があるのです。もっとも大事にすべき気持ちの部分に、嫌々な気持ちがお布施を通じて乗るのであればそれは本末転倒なご供養と言えるでしょう。お布施の事を気にせず、気持ちよくお世話になった人にお参りしていただきたいものです。(住職)
諦めない心とはどうやったら鍛えられますか?
戦うべきものは、己のキツイ事を続けたくないという本能です。これを、夢や希望を心に描き、理性でコントロールしていくのです。
檀家を離れると仏様のご加護がなくなるというのは本当ですか?
実際に相談されたことですが、もちろんありえない話です。
もし、本当に檀家を離れて他宗に行くことで仏様のご加護が無くなるというのであれば、他宗のお寺は仏様のご加護がないお寺ということになります。そんなお寺は世の中から支持を失い消えてしまわないといけません。
実際は、むしろその逆でしょう。仏教はインド、中国、日本と様々な国を渡って広がっております。言うなればそれだけ多種多様な考え方の人にもご加護をもたらしたと言っていいと思います。
他宗が悪いとかお経がなんとかというより、同じ仏教なのですから人が幸せになるようにお手伝いする同志であってよいと思います。人に嫌なことを言い、不幸な気持ちにさせ、不安をあおることが正しい仏教者なのでしょうか。とても疑問です。
もともと僧侶とは、2500年前ビクシュと呼ばれたものでした。
ビクシュとは、原訳は「食を乞うもの」でよい行いをしそのお礼で食を得て生きていくという意味です。お礼どころか嫌がられ、恨まれていては仏教の教えに反していると言えるでしょう。僧侶以前に人として正しいかを問うべきものなのです。
僧侶とは仕事ではなく、生き方であるべきだと私は思います。これからも社会の問題解決のお手伝いをしつつビクシュとして生きていきたいと思うところです。(住職)
訳あって離ればなれになったけど本当に会いたい人がいます。
出会いと別れの時期ですので、縁結びの寺として出会いのお手伝いをする文章を書きましょうか。
実はこの時期、当寺の縁結びのお守りや特別な縁結び祈願がよく出ます。(縁結び以外のお守りも求められますが)それと同時に、結構現在の状態などの悩みを添えてどうぞ現在の状況にあったご祈願していただきたいとお願いされるのです。
その内容がもう一度「本当に会いたい人」がいます。というものです。
正直、仏様は万能ではありません。必ず、思い通りに縁を繋ぐという都合の良い存在ではないのですが、なにも努力せず、なにも思わない人に、良い縁が来ないのもまた道理です。
私達の縁結びは、人と人とが結びつきやすくなるようにお手伝いしながら、より良い縁が結ばれるように様々なアドバイスをしています。
人生のありとあらゆる選択は最終的には無駄になることはありません。是非、当寺のお守りを持って勇気を出して会いにいっていただきたい。人生はやって後悔するより、やらずに後悔するほうがはるかに多いのです。
皆様が素晴らしい人で縁を結び幸せになることをお祈りしております。
修行したお坊さんは時間厳守が大好き?
ブッダイズム的な理想の入学式とは?
そろそろ、入学式のシーズンですね。
自分の学生時代を思い出すと、非常にお恥ずかしい話ですがまともに勉強していた記憶がありません。何に一生懸命だったのでしょうか・・・。それはそうと、自分も一時期は入学式なんてめんどくさい事してなんの意味があるのかな。などど考えたことがあります。
今思えば、実に表層的なものしか見えていなかったものだと反省するのですが大部分の人は、目に見えるものをとても重視します。人は視覚から大半の情報を得るものです。(80%とか90%とかいわれるほどです)しかし、物事の本質は目に見えるものではありません。言わば、理念や人の想い、そういったものが根幹となって様々な形が生まれていくのです。
すこし説明が長くなったところで、ブッダイズム的な理想の入学式とは?
人生を変えていくような強い想いを入学式を通じて抱けるかどうかだと思います。
強く、強く、心が揺さぶられるような感動を覚える入学式なんか最高じゃないでしょうか。
ただ漠然と参加し、よくわからず終わる式典など、双方にとって不幸だと思います。
他にも大事な事は色々ありますが、ブッダイズムの基本は社会を人の心を通じて見ていく哲学です。心が強く社会にとって素晴らしいものであれば社会は自ずとその志に応えていくものなのです。「少年よ大志を抱け」とはよく言ったものですね。
心が正しければ人生が豊かになり、間違っていれば病むものです。
先人が残した想いを組んで社会を導いていく若人が入学式を通じてたくさん生まれると良いですね。
(住職)
※ブッタイズムというのは、当寺が提唱するブッタの流れを組む哲学という造語です。
法華院温泉山荘で久住山の山開き神事を執り行いました。
毎年、法華院温泉山荘主催のくじゅう山の山開きの神事を担当しております。
まず、前夜祭で護摩を厳修してから夜に神楽を奉納し、翌日は毎年変わる山頂祭を行う神事です。
今回で第17回になるのですが(2017年で覚えると解かりやすいです)一言に、天候が不安定なことが多いです。山の天気だからと言われればそのとおりなのですが、先日は山の上で雪・・・4月なんですが。
雨降って地固まるという言葉があるように、清めの雨であると思っております。
実際、ここ17年くじゅう山で大きな事故はありません。とても素晴らしいことで関係者の努力の賜物だと思います。九州随一の山岳信仰のお山がいつまでも美しく、皆様の心を癒していくよう少しでもお手伝いできればと思う次第です。(住職)